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コラム『カシオペイア』(アーカイブ)

コラム『カシオペイア』(アーカイブ)第58号
オンライン授業と対面授業の狭間で、これからの教育をちょぴっと考えてみた
徳田真彦(大阪体育大学)

2021.6.9

『文部科学省は25日、新型コロナウイルス禍での学生生活について、大学生らに初めて行ったアンケート調査の結果を公表した。オンライン授業の満足度では、「満足」が56.9%で、「満足していない」の20.6%を大きく上回った。』

オンライン授業「満足」56% コロナ禍、初の学生調査―文科省:時事ドットコム (jiji.com)

 「へぇー…」

Yahooニュースの記事を読み、記事への感想としての「へぇー」と、「じゃあ、このオンライン授業が続くなかで、私が漠然と感じている学生たちへの不安は何なのだろう」の「へぇー」が同時に言葉になって出てきました。

これはあくまで学生たちの満足度なので、そもそも学生たちの学習効果やより良い教育に繋がっているのかという観点では、慎重な議論が必要ですが、間違いなくこれからの大学教育は、オンライン授業と対面授業が共生していく時代になっていくと思います。それは各大学の特色(売り)によって、様々なバランスを取られて実践されていくものと思いますが、野外教育を専門としている私にとっては、実体験から学ぶ機会が減っていくのではないかと、一抹の不安を感じています。

もちろん、オンライン授業のメリットや可能性も強く感じています。オンライン授業を行う中で感じているメリットを挙げると、

①いつでもどこでも学習できる

②反復して学習できる

③移動時間の短縮(それに伴う支出の削減)

④削減された時間を有効活用できる

といったところでしょうか。これを見て、「コンテンツの質はどうなんだ」と思われる人もいるかもしれませんが、「講義」に限ると、オンライン授業においても、各種機能を有効活用することによって、対面授業とほぼ変わらないグループワークや質疑応答が可能であると感じています。では、「デメリットは?」と問われると、メリットがそのままデメリットにもなり得ます。上記①や②の学習に関するメリットは、学習者の学習意欲に大きく左右されるため、「とりあえず見ておく、参加しておく」という意欲の低い学生にとっては、「学習」ではなく「作業」となってしまいます。また、③や④の時間のメリットについても、人や社会との関わりを遮断する要因となったり、ただ漫然と過ごす日々を助長してしまう可能性があります。

 Harvard Business Reviewの記事に、「ワークフロムホーム(在宅勤務)は生産性と創造性にどのような影響を及ぼしてきたか」というテーマについて、研究者の調査結果を基にまとめられていました。その中で、バーチャルワークの中で失う恐れのあるものとして、「偶然の出会いや交流をきっかけに大きな成果を上げる機会」を挙げています。さらに、「緩やかな結び付きの生成」や、「人間関係の醸成」、といった組織の長期的な健全性に重要な活動に対しても、失われる可能性があることを述べられています。これは、まさしく私が最初に言った「へぇー」の言葉の中にある「漠然とした不安」そのものでした。大学の存在価値は、単に講義を受け、知識・技術を修めることだけではなく、大学生活での偶然かつ様々な出会いや交流の中で、多様な価値観に触れ、広い視野を持ち、新たな可能性に気づく、そして知を統合しイノベーションを起こしていく、そういった過程にこそ本質的な価値があるように思います。これは、キャンプ活動にも同様に言える価値なのではないでしょうか。

 最後に、同記事において「パンデミック後の勤務形態4つのポイント」が挙げられています。その一つに、保険会社ネーションワイドの最高総務責任者のゲール・キングの言葉が載せられていました。

「WFHとWFO(ワークフロムホームとワークフロムオフィス)両方への適応力を鍛え、それぞれの実情、つまり利点と欠点を共有すること」

大学教育においても、野外教育においても、これからの「教育」を考えるうえで、教育方法の利点や欠点を十分に理解しておかなければなりません。このコロナ禍の世界で、「失われているが失われてはいけないもの」、「失われるかもしれないもの」を適切に捉え、より良い未来のための教育を考えていきたいですね。


大阪体育大学
徳田真彦

引用文献

オンライン授業「満足」56% コロナ禍、初の学生調査―文科省:時事ドットコム (jiji.com)

Harvard Business Review ワーク・フロム・ホームの生産性,ダイヤモンド社,2020.11.

コメント

No.1   ロッキー

小学生の子どもが2人います。まだオンライン授業で家で学習するということにはなっていませんが、そうできるようにタブレット端末を渡されているようです。

学校の先生って、たまたまその先生に出会うわけですが、嫌だった先生、とても影響を受けた先生がいます。記憶に少ない先生は高校の先生が多いです。小学校、中学の先生のことはよーく覚えています。その時代は体当たりで感じることが多かったんだろうなーと思います。出会う先生は、大事な大人像であったと感じています。

大学はすごくお金がかかるわけですが、僕は不真面目で、授業は寝ていることが多かったと。今思えば、そのとき目指すところが野外教育の現場であったなら、自然学校運営マニュアルを見つけ、感動した時点で学校を休学するなり辞めるなりして実習生になることもできたなーと振り返りっています。教員免許、生涯使わなさそうですし。でも大学の授業で桜井さんに出会い実習生になることができました。まさに生身での人や深い専門性との出会い、師、同志との出会いが大学に通う醍醐味だなと思います。

小学生にはこの世界が安心感で包まれていることを実感して、無我夢中で遊びに没頭して、大人に愛されて、学習も進められたらいいなと思います。だからこそ、この時代に合った教育を考えることが大切だと感じています。

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No.2   ロッキーさん

No.1への返信

「体当たりで感じる」良い表現ですね~。
あくまで個人的な感じ方ですが、学生たちを見ているとあまりに効率化されているように感じます。
自分にとって「意味のある事、資格、体験」ばかりに取り組み、ロッキーさんが言うような遊びに没頭することや、生身で本心で人と人との関わりを持とうとすることを、意識的に避けているような印象がありますね。大学生なんて、「意味のないこと」、をどれだけ全力でやれるかが大事だと思うのですが(人との関わりしかり)…。

オンラインにて十分に(むしろ効果的に)学習される授業と、体当たりであるべき授業、そして人が関わり合うからこそ生まれる感性、社会性、自立心…etcそういったものを適切に捉え、機能しあう教育がなされるようにしなければなりませんね。

もしかしたら、先生はAIが担った方が、常にビックデータによる最新の情報が得られ、間違えることもなく、体力は無限に続き、情緒は安定している…、よっぽど効率よく効果的かもしれません。そんな中で「先生」が人である必要性はなんでしょうね。

さらに通信システムが5G,6Gと発展していく中で、遠隔地にいながらもVRで目の前にAIの先生がいて、バーチャルの中でも実際に物に触れる感覚があり、その場の空気を感じることができるようになる、そんな世界が目の前に来ているなかで、我々が失われるもの、失ってはいけないものは何か。

現代社会はすさまじいスピードで発展していて、我々教育者は取り残されているように感じています。
それは、目の前にいる児童、生徒、学生がいるからかもしれません。しかし、その子たちに目を向けるのはもちろん大切ですが、これからの教育を見据え、あらためて本質を見つめることが必要なのではと感じています。

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No.3   ロッキー

No.2への返信

人が互いに生身で話をしたり、考えたり、気持ちを共有するのは、理由は分かりませんが、人である所以だと感じています。

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