第406号 『老いていくということ』
2025.2.1
『老いていくということ』
今号で、この雑記帳も、406号を迎えました。
40年かかってですから、平均すれば、おおむね年間10号ずつ書いてきたことになります。
はじめは確か季刊で始まり、隔月、月刊という変遷を経てきての結果です。
また、紙で発行していた、国際自然大学校の機関紙「アウトフィッター」の中のコラムとして書いてあった時代から、このように、インターネットサイトに掲載するようになりました。
2021年4月の360号からこの走林社中のサイトで書き続けています。
第1号は1984年10月号に書きました、『高齢者とアウトフィッティング』というものでした。
これは、機関紙「アウトフィッター」の初号に書いて、手書きガリ版刷りだったのです。
内容を少し抜粋してみますね。
社会の流れがそんな使い捨て発想だからといって、我々が人間の人間による人間の使い捨てを見逃してよいのでしょうか。
老人ホームの姥捨て山化を見逃してよいのでしょうか。
高齢者は肉体的には確かに衰えて、社会のデンポからは遅れます。
そこで、今、我々はゆっくりしたテンポでも活躍できる場を社会の中につくり出し、再び老人に登場願おうではありませんか。
そして、次には社会そのものも老人のテンポを受け入れられるような、ゆとりのある社会にしてゆくべきでしょう。
我々が今まで、手をつけなかったアウトフィッティングのジャンルだと思います。
しかし本当に我々が考えなくてはならないジャンルでもあるような気もするのです。
というようなことを書きました。
1884年ですから、私は当時27歳です。27歳の若造が、高齢者がもっと幸せに暮らせる社会を作らないといけないと考えていたんですね。
それがなんと、自分自身が、高齢者になってしまいました。
しかし、当時からそんなお年寄りのことをちゃんと考えていたのは、ちょっとすごいなと思いました。
自画自賛です。笑ってください。
ただ、今、高齢者になってみれば、若い人が心配してくれるより、自分自身がそのような暮らしをして、若い人の手本にならないといけないと強く思っています。
今、高齢者の話を書いた第1号から、40年を経て、歳を取らないことに社会は一生懸命のように思います。
アンチエイジングというやつですね。
しかし、間違いなく人は老いるはずです。
その老い方を、いかに自然にするかということも大切なことなのではないでしょうか?
ちょっとエラそうに言えば、究極の自然体験です。
自然な老いを体験するのです。
国際自然大学校を作ったときに、アウトフィッターという言葉を掲げました。
自然や人とのかかわりの中で、人生を前向きに生きている人を、アウトフィッターと呼ぼうとしました。
そして私は最近、自然の中での自然な体験が大切だと言っています。
人生を前向きに生きるというのはいつまでも若くいようと努力することが前向きなことなのでしょうか?
自然な老い方は、自然な体験なのではないでしょうか?
そして、その自然な老いを受け入れ、いかに、無理なく、楽しく、健康に、老いていくかが大切なのではないかと思っています。
そして、そのような老い方を若い人たちに見てもらい、このような歳の取り方もいいな~と思っていただけるようにするのが、私たち、指導者の今の役割なのではないだろうかと思っています。
その老いのひとつとして、この雑記帳は、次号407号をもって終了とさせていただこうと考えています。
このような皆さんに呼びかける仕事は、若い人に引き継いでいくべきと思います。
しかし、私自身の姿を皆さんに見ていただける機会は、いろいろ考えていきたいとは思っています。
では、次号、最後のご挨拶をさせていただきます。