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コラム『雑記帳』

1983年国際自然大学校設立当初より発刊していた機関誌『OUTFITTER』に寄稿していたコラムです。
現在、機関誌『OUTFITTER』は、廃刊となりましたので、WEBにて、コラムを書き続けています。
現在は月1回、1日に更新しています。

『葬儀から見えてくる新しい地域』

2022.11.1

父が92歳で亡くなりました。
おかげさまを持ちまして、10月9日に無事葬儀を済ませることができました。
さて、そこで感じた事があります。
葬儀というのは、地域でもとても大切な行事だったのですね。
皆さんは、村八分という言葉をご存じでしょうか。
村人が、村の約束事を破った時の罰として、村での交際というか行事である、冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の10種のうち8つを仲間から省かれるというものです。
逆に言うと、そんなときでも、2つは省かれない。その2つが、葬儀と火事です。
火事は、類焼がありますから、消火をみんなで助け合ったということですね。
そして葬儀も、みんな出てくれて、手伝ってくれたということです。

そんな葬儀ですが…
村八分にも象徴されるように、葬儀というのは地域で送ってあげるものだったと思います。
もちろん、今でも、地方ではそうでしょう。
地域で、地域の人を贈る習慣がきちんと引き継がれていると思います。
八ヶ岳の我が家のある地域でも、そんなシーンが一度ありました。
地域の方が亡くなった時、地域の人がみな喪服を着て、ぞろぞろと歩いて公民館に集まり、ご葬儀を進めていくのです。
中にはエプロンを持参された方もいました。

しかし、都会では、どうでしょう。
地域での葬儀というのが難しくなってきているのではないでしょうか。
マンションなどではお通夜をしたり、葬儀をしたりすることも難しい状況でしょう。
出入口が狭かったり、お棺を安置して、お焼香を受けるための部屋を確保したりすることも難しかったり、ましてや、受付や精進落としをしてもらう部屋などは用意できないでしょう。
もちろん、集会室などというものが用意されていますが、ご近所付き合いが少なくなってしまっているマンションなどでは、そこでお通夜をするのも寂しいものなのではないでしょうか。

今では火葬場で、お通夜もご葬儀もすることが多いようです。
父もそうでした。
それでも、コロナ前まではまだ、会社が葬儀を取りして切ってくれる場合が多かったと思います。
社員の家族が亡くなったりした場合でも、会社の総務の人が、お手伝いしてくれて、葬儀を整えてくれたものです。
しかし、このコロナでオンラインが進み、地方で働くことが珍しくなくなった今、会社のその機能は、どうなってしまうのでしょうか。
東京の会社なのに、社員は北海道にいて、そこで家族が亡くなったなんてことが起きるわけですね。
今、家族葬というのが、コマーシャルなどでも流れているのは、そんな社会の状況をとらえて、次の時代の葬儀の形を提案しているのかもしれないと感じています。
その家族葬はどこで行われるのでしょう。地域で行われるわけですね。
村八分に象徴されるように、地域の付き合いを絶ったとしても、葬儀と火事だけは共にしますというものであったものが、葬儀まで付き合いの外になってしまうのでしょうか。

今、このリモート社会になって考えなくてはいけないことは、このような地域でのお付き合いの仕方なのではないでしょうか。
まず、新しく移住した人が地域にどのように溶け込もうとするか。
また、地域は、新しい住人をいかに受け入れようとするか。
この関係を、現代的な仕組みとして作り上げないといけないのではないでしょうか。
そして、ここでもうひとつ考えなくてはいけないのが、この新住民が、日本人だけではないということです。
外国人は、日本の風習などを理解できません。
きっと、ルールをしっかり作り、そのルールに従って暮らしていくことが必要なのではないでしょうか。
阿吽の呼吸とか、習慣だから…というのは、行き違いの元だと考えなくてはいけないでしょう。
またそのルールも、あまり細かかったり、お互いを監視しあうようなものは、住み心地を悪くしてしまうでしょう。
暮らすための、気持ちというか、心持というか、そんなものも、ルールではなくても、みんなそういう気持ちを持ちましょうというようなスローガンも必要かもしれません。
そして、そのルールを明文化し、地域の人が平等に手にすることができることが必要なのでしょう。
そして必要に応じて、みんなで協議して、改定することも辞さないことでしょう。