『お年寄りを保護しました』
2021.12.1
先日、お年寄りを保護しました。
私たちは、ちょうどそこに居合わせたというわけです。
これはどう考えてもおかしいと思い、車を止め、お年寄りを追いました。
土手を登り桑畑の中で、桑の木につかまって、休んでいるというか、立ち尽くしているお年寄りに追いつきました。
『どうしました?お怪我されているようですが』と、声を掛けましたが、何か要領を得ません。
来ているセーターには、植物の種がいっぱいついています。
お名前を聞くと、きちんと答えてくださいました。
とりあえずここでは、Aさんとしましょう。
Aさんに「どちらに行こうとしているのですか?」と聞くと「家に帰るところだ」といいます。
では、おうちはどちらですか?
住所うかがえますか?
お送りしますよ…というと、住所をおっしゃるんですが、まったく知らない地名です。
電話番号を伺うと、これまたこの辺の局番ではない。
しかしとりあえずかけてみましたが、誰も出ません。
帰り道わかりますか?
道を教えてくれればお送りしますよ…というと、わかるというので、車にお乗せして走りはじめました。
しかし、どう考えても向かう方向がおかしいのです。
県を超え長野に向かおうとしています。
これはダメだと思って、Aさんを説得して、近くの交番へ駆け込みました。
交番には誰もいないので、交番に備え付けられている電話で、通報しました。
かくかくしかじかで、Aさんという方を今交番まで連れてきましたというと、名前を確かめられた瞬間、受話器の向こうから明らかに騒然とした雰囲気が伝わってきます。
「そこにいてください、すぐに向かいます!」ということで、Aさんはとりあえず車の中で休んでいてもらうと、お巡りさんが駆けてきました。
Aさんを交番にお連れし、椅子に座らせていると、次から次へとお巡りさんが駆けつけてきます。最後は7~8人ものお巡りさんがわさわさと…。
何か私の方が、圧倒されてしまいました。
事情をお巡りさんから聞くと、捜索願が出ていて、認知症の方だったようです。
それも、九州の方から東京の息子さんが呼び寄せ、旅行でこちら山梨に来ている最中に、徘徊してしまったようです。
Aさんも息子さんも、まったく土地勘がなく、途方に暮れての捜索願となったようです。
警察も総出だったようで、あちらこちらで捜索していたお巡りさんが交番に集まってきたということでした。
ケガをしていたので、とりあえず病院に運ぶという手筈が整ったところで私たちはお暇しました。
後刻、その息子さんからお礼の電話をいただきました。その時お話して分かったのですが、電話番号と住所はあっていたんですね。九州の住所と電話番号だったのです。
以前もお話ししたかもしれませんが、病院に行こうとした独居老人を保護したことがありました。病院とは全く反対方向へ歩いていたのです。本人は、こっちでいいのだというのですが、病院名を聞けば全く反対方向なのです。おじいさんを説得し、病院まで送り届けると、お医者さんが、少し認知症があるのですとおっしゃっていました。
私ももうすぐ65歳。周りの人たちからは、まだまだ若いですよと言われますが、決して他人ごとではない年齢になり始めています。
時々、町内の防災放送で「このような、お年寄りが行方不明になっているのでお見かけの方はお知らせください」等と流れています。
考えてみれば、裏のお宅は90歳近いおじいさんのひとり暮らし。西側のお宅は、私よりも少し上のお年のご夫婦のふたり暮らしです。
西側はやはり私より年上の男性のひとり暮らし。
どちらの方々を考えても、他人ごとではないと思ってしまいます。
このようなことが頻繁に起きるのが地方の実態かもしれません。
以前、『ココヘリ』という行方不明者を見つけるためのシステムをご紹介したことがありましたが、今、身に染みて、そのようなことが必要だなと、痛感しています。
小さな端末を身につけていれば、スマホなどでその端末の居場所を見つけてくれるというような仕組みをつくり、行方不明になった時にそれを使って、居場所を特定できるようにならばいいと、強く思いました。
以前から申し上げていますが、科学や、先端技術というのはそのように、弱者のために開発されることが多いのですが、実際に活用されるのは、弱者ではなく、社会の強者のためになることが多いような気がします。
本当に弱者のために活用されるといいなと、つくづく思います。
これからの日本に必要なのは、このような弱者にやさしい社会なのではないでしょうか。
これからの日本に必要なのは、このような弱者にやさしくいられる人間の育成なのではないでしょうか。
これからの日本に必要なのは、発展や成長よりも、持続と継続なのではないでしょうか。
今あるものを大切に、傷んだものは、やさしく修理し、いつくしんで使い続ける。
お年寄りには、やさしく、いつくしんで寄り添う生活をしていく。
そんな暮らし方を支援する経済を私たちは求めていくべきなのではないでしょうか。