日本を、支える人材、けん引する人材、を育てる

コラム『雑記帳』

1983年国際自然大学校設立当初より発刊していた機関誌『OUTFITTER』に寄稿していたコラムです。
現在、機関誌『OUTFITTER』は、廃刊となりましたので、WEBにて、コラムを書き続けています。
現在は月1回、1日に更新しています。

第400号『アウトフィッターは入我我入』

2024.8.1

国際自然大学校はアウトフィッター~自然や人とのかかわりの中で、人生を前向きに生きている人~の育成を標榜しています。
でもその日本語は、なかなか難しいとずっと思っていました。
カバーページの写真をご覧ください。
私は、グーとパーの関係で説明することがよくありました。
グーが主張して、パーがグーを包み込むように変化するのも、フィットすることですね。
逆にパーが主張して、グーが開いてパーになることでもフィットすることになりますね。
でも、このふたつは、どちらかが変化せず、どちらかが変化するという、勝ち負けのような調和(フィット)の形です。
でも、グーもパーも少しづつ形を変えて…例えば、両手で小さなボールをやさしく包み込むような形になるとも、フィットするということになりますよね。
私はアウトフィットということをこのように説明してきました。
そして、このように、自分の外と調和し続けることが、アウトフィッターなのです。
わかっていただけますでしょうか。
なんとなく…わかる感じでしょうか。
しかし先日こんな言葉に出会いました。
【入我我入】という言葉です。
真言密教の空海の言葉のようです。
高野山真言宗総本山金剛峯寺のホームページにはこの言葉について以下のように説明がされています。
真言密教の修法(修行の方法)を三密加持(さんみつかじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言いますが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地・さんまじ)のことです。特徴としては、仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。弘法大師は、このあり方を仏が我に入り我が仏に入る、という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼んでいます。
仏と一体になるということですが、私はこれを「いかに自分の外の世界と調和するか」ということにつながるのではないだろうかと考えました。
アウトフィットとは入我我入である…とは、言いすぎでしょうか。
しかし実は、日本語で解説するときについている、人生を前向きに生きている人というのが重要なのではないかと思っています。
と、言うのは、これでいいと思ってはいけないということです。
「で、いいや」という生き方ですと、今に安住してしまい、調和し続けることができなくなるのです。
なぜなら、調和する相手は日々変化しているからです。
自然との調和についても同様でしょう。
知らなかったことを知ったことによって、もっと努力をしなくてはいけないことになることは多々あることです。
身近なことでいえば、「エコバックを持ちました」で終わっていませんか?
エコバックを持ちましょうということは、自然とのかかわりの中で、私たちが変化して調和していきましょうということに気づき、行動に移す第一歩であって、すべてではないのですよね。
でも、「これでいいんだ」と、エコバックを持つことで終わってはいませんか?
人生を前向きに生きている人にならないといけないと思います。
前向きにということは、考え続けるということです。行動し続けるということです。
仏教のほとんどは、日々のお務めとして、その行動を促すための活動をするように促しています。
私たちは、これら先人の知恵をいかに取り込んで、自然とのかかわりを体験できる活動の中に生かしていくことができるか考えなくてはいけないのではないでしょうか?
いかに日々の活動に生かしていくかと言えば、以前もご紹介した、散歩のときに、ありがとうと、ごめんなさいを言って歩くということなどはとてもいいことなのではないかと思います。
そのためには、自然の中での体験活動の中に散歩を取り入れるのもいいのではないでしょうか?
私が初めてキャンプをしたのは小学校の2年生。1965年というと戦後20年です。
前の東京オリンピックが1964年ですから、まさに戦後復興真っ最中ということですね。
この1965年ごろからキャンプは何が変わってきたでしょうか?
テントは変わりました。
コンロも変わりました。
でもキャンプファイヤーとかはあまり変わっていないような気がします。
登山とかのプログラムの変化もあまりないかもしれません。
もっと、何のために…例えば【入我我入】を、考えたプログラムを作り上げていきませんか?